武田信玄の駿河侵攻と家康の浜松城移転

どうする家康

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この記事は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』を楽しむための予習記事です。
「大河ドラマは難しい」と思っている方にも、通説をもとに大まかになるべく分かりやすく背景を紹介しています。
予備知識があると、大河ドラマがグッと面白くなりますよ。

1569年、今川領を武田信玄と徳川家康の挟み撃ちし、大名としての今川家は滅亡しました。

武田信玄は駿河から今川氏真を追い出しましたが、氏真の舅である北条氏康が武田の侵攻を阻止します。

遠江は徳川家康の支配下になりますが、駿河は武田家と北条家の取り合いになります。

また、密約をかわしたはずの徳川家康と武田信玄の仲が悪くなっていきます。

それまでの経緯を見てみましょう。

武田信玄への不信感

徳川家康と密約を交わし、駿府・今川館を落とした武田信玄。

しかし、密約では大井川を挟んで武田と徳川で領土を分けると約束していたにもかかわらず、武田軍の秋山虎繁が天竜川を越えて攻めてきたことがありました。

家康は武田信玄へ不信感を抱きます。

掛川城での戦いで徳川家康は今川氏真と和睦しますが、この時家康は、北条氏康と協力していったん武田軍を駿河から追い出します

痛手を負う前にサッと引くのも武田信玄によく見られる戦略です

今川氏真は北条家の庇護を受ける事になったので、今川家が治めていた駿河は北条家が受け継ぎます。

この時の今川氏真には国を守る力はもうないもんね

武田信玄、北条家を攻める

甲斐・信濃と海のない領土を治める武田信玄は、海に面した駿河がどうしても欲しかった。

塩が欲しいだけでなく、水軍も作りたいし物流にも使いたい。

北条家が水軍を持っているので、対抗すべく。

水軍を持っていると、陸ではできない侵攻ルートもできますから

駿河を引き継いだ北条氏康は、武田信玄が再び駿河を攻めてくることを想定し、備えます。

この時の北条氏康、実は結構苦しい状態。

今川家を味方して武田家と敵対した北条氏康は、周りを敵対勢力に囲まれまくる状況になります。

北条氏康は強いけど、武田信玄も上杉謙信も強すぎますからね

武田信玄と戦うには不利な状況なので、1569年、北条氏康は敵対していた越後の上杉謙信と和睦します(越相えつそう同盟)。

越相同盟では、同盟の証として北条家から16歳の北条三郎(のちの上杉景虎)が人質に出されます。

上杉謙信にとても可愛がられ、謙信の養子になります。

上杉景虎は相当イケメンだったらしいですよ。上杉謙信の元服時の「景虎」という名前をあげちゃう位かわいがってたみたい。

上杉謙信の死後、上杉家の存続を揺るがすほどの大きな跡目争い「御館おたての乱」を引き起こす張本人です。

御館の乱をもう少し詳しく知りたい方はこちら

武田信玄は北の上杉、東の北条と敵対勢力に囲まれることに。

敵と味方が目まぐるしく変わる状況で、同盟もメリットがなくなるとすぐ崩れてしまう。まさに戦国時代

武田信玄は、再び動き出します。

武田信玄は駿河に攻め込んでくると思いきや、なんと北条家の本拠地・小田原城を目指すがごとく、北条家の領土を荒らしながら攻めてきました。

不意をつかれた北条氏康は小田原城に籠城し、駿河にいた兵も引き戻します。

武田軍は小田原城を包囲。

ただ、守りの堅い小田原城は落ちず、武田信玄は数日で引き上げます。

引き上げる際、追ってきた北条軍と三増峠みませとうげで激しい戦いになりますが、武田軍は甲斐に撤退しました(三増峠の戦い)。

北条軍が駿河から引きあげた隙に、武田軍は再び駿河を攻め、武田信玄は駿河を手に入れます

武田信玄が北条家(小田原城)を攻めたのは

  • 駿河から北条軍を撤退させる
  • 武田軍の強さを見せつける
  • 北条氏康と上杉謙信の同盟を危うくする

こんな意図があったのかもしれません。

北条氏康を脅したかったのかな。だから早々に小田原城から撤退したのかもしれませんね

三増峠の戦いで武田信玄の強さを思い知った北条氏康は、嫡男の北条氏政うじまさに「武田と同盟しろ」と遺言を残したそうです。

北条家は上杉謙信にも援軍の要請をしていたようですが、上杉謙信も別の戦があり援軍を出さず、この後関係が崩れたとされています。

家康、浜松城へ引っ越す

武田信玄が駿河を掌握したことにより、領土が隣り合わせとなった徳川家康。

いつまた武田軍が攻めてくるかもしれないと警戒し、1570年、徳川家康(29歳)は岡崎城から浜松城へ拠点を移します

岡崎城は、嫡男の信康が城主になります。

家康は最初、見付(静岡県磐田市)という場所に城を建てる予定でしたが、織田信長から「駿河から武田軍に攻められた時に背水の陣になってしまう」と止められたよう。

天竜川が背後にある為、追い込まれてしまいます(背水の陣)

背水の陣

家康は背水の陣を嫌い、本拠地を曳馬ひくまにし、城を拡張します。

この時、「曳馬城」は「馬をひく」という負け戦を連想させることから「浜松城」に改名します。

実はこの頃、徳川家康は武田信玄をけん制して、上杉謙信と同盟を結んでいます。

武田信玄は敵に囲まれた状態になってしまい、ほんの少しの間ですが非常に身動きを取りづらい状況に。

関係がコロコロ変わるからややこしくなってきたなー

そして、北条氏康が病にかかり寝込みがちになります。

今川氏真にとっては、頼りにしていた義父。

どうする?!今川氏真!

まとめ

1569~1570年の徳川家康を取り巻く背景を紹介しました。

  • 駿河からいったん武田軍を追い出し、北条家が駿河を支配
  • 武田信玄、小田原城を攻める
  • 武田信玄、再び駿河を攻め、掌握
  • 徳川家康、浜松城へ移転

家康は、武田信玄と敵対関係になってしまいました。

この記事では家康の出番が少なかったですね。

1570年、徳川家康は浜松城へ移ってすぐに、同盟関係の織田信長の援軍として大きな戦に参加します。

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