【家康の三河平定①】西三河侵攻と清州同盟

どうする家康

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この記事は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』を楽しむための予習記事です。
「大河ドラマは難しい」と思っている方にも、通説をもとに大まかになるべく分かりやすく背景を紹介しています。
予備知識があると、大河ドラマがグッと面白くなりますよ。

桶狭間の戦いで今川義元が討たれたことにより、三河国衆くにしゅうたちは織田につくか今川につくかと不安定な状況でした。

国衆くにしゅう:国の住民で地域をまとめている地方豪族大名と主従関係を持つことが多い。国人ともいう。

家康も岡崎を治める三河のいち国衆ですが、混乱した三河を6年近くかかって統一し、三河の大名になっていきます。

※大名・・・一言で説明できないですが、国(今でいう県くらいの規模)を軍事力を持って治めている領主

家康、三河の大名に出世していくんだね

まず、家康は西三河を制圧します。

どのように制圧していくか、見ていきましょう。

※徳川家康はこの時「松平元康」ですが、便宜上「徳川家康」で統一します。

今川家からの独立

かなりざっくりですが、家康が岡崎城に戻った頃の三河はこんな状態。

西三河・・・桶狭間の戦いで勝利した織田家の勢力が拡大

東三河・・・今川家についている

色がない上の方(奥三河)はどっちにつくか様子見

松平家も当主の家康が人質から解放され岡崎城に戻ったものの、今川家の支配下であることには変わりない。

今川義元亡き後、今川家のトップは息子の今川氏真うじざね(23歳)。

大河ドラマ「どうする家康」では、溝端淳平さんが演じます

今川家は桶狭間の戦いで大事な家臣も多く失い、今川氏真は混乱した駿河を立て直そうとします。

氏真は、父・今川義元から駿河を任されていたからね

家康が岡崎城に戻ることは氏真も許可したようで、織田軍が三河へ攻めて来る際の攻防の為に、家康を岡崎城に配置したとされています。

西三河を制圧~織田勢との戦い~

家康はまず、織田家が勢力を伸ばす西三河の拠点を攻め落としていきます。

中でも、三河で古くから力を持っている吉良家は家康に猛反発。

吉良家は今川家と同じく、室町幕府を開いた足利一族の名門。

小さな国衆だった松平家の台頭は面白くないでしょう

吉良家との戦いは壮絶でした(善明堤の戦い藤波畷の戦い

そして、家康は今川氏真に「父の敵討ちとして織田を討ちましょう」と提案するのですが、氏真はあまり乗り気じゃない。

氏真は、戦嫌いだったとも言われています

今川氏真は、駿河の立て直しの為に、甲相駿こうそうすん三国同盟をなんとか維持しようと力を入れていました。

甲相駿三国同盟とは

  • 甲斐:武田信玄
  • 相模:北条氏康
  • 駿河:今川義元

1554年にこの3者が結んだ同盟。

お互いの国の利益の為に協力関係となりました。

同盟の証として、お互いの子供同士を政略結婚させています。

今川氏真には、この同盟で北条氏康の娘・早川殿が嫁いでいます。

この頃、三国同盟相手の相模・北条氏康うじやすが、越後の上杉謙信(この頃は長尾景虎)から攻められピンチを迎えていました。

上杉謙信は「越後の龍」や「軍神」と恐れられる、かなり強い武将です。北条氏康も強いですけどね。

北条氏康は小田原城を上杉軍に包囲され、籠城ろうじょう戦になります(小田原城の戦い)。

今川氏真は三国同盟を維持すべく北条家へ援軍を出しますが、一方で三河方面への援助が手薄になっていました。

そんなこんなで、家康は今川氏真へ徐々に不信感を募らせていく。

今川家が弱体化していることもあり、家康は今川家から離れる事を考え出します。

清州同盟で信長と組む

西三河の織田方を攻撃する家康に対し、織田方であり家康のおじ・水野信元が、織田信長へ家康との和睦を申し出ます

実はこの時、織田家と再び対立していた美濃斎藤家の当主が変わり、若い斎藤龍興たつおきが当主になった

それをチャンスと見た織田信長は美濃を攻めようとしていたので、三河に戦力を使いたくない状態。

今川家から離れることを考え出していた家康も、この同盟をチャンスととらえます。

1562年、水野信元の仲介で家康は織田信長と同盟を結びます

水野のおじさんは仲介役に適任だわ。信長と家康をつなぐなんて、いい仕事するね

三河を気にせず美濃を攻めたい織田信長と、今川家から独立したい家康。

両者にとって都合が良かったのです。

清州同盟のメリット

  • 信長は東(三河)を気にせず美濃や西へ勢力を伸ばせる
  • 家康は西(尾張)を気にせず東へ勢力を伸ばせる

家康が清州に出向いて信長と同盟を結んだようで、清州同盟と言われています。

現在の清州城

正直、敵だった尾張に出向くのは怖いよね。信長は清州城に見舞いに来た弟の信行を暗殺してるし。

同盟の証として、家康の嫡男・信康と、信長の娘・徳姫との婚約も決まります。

そして、「松平元康」だった家康の名前は、今川義元からもらった「元」の字を捨て「松平家康」に改名しています。

やっと「家康」になった

家康は、今川家への離反を示したことになります。

当然、今川氏真は激怒

ちなみに、裏切りの多い戦国時代にも関わらず、清州同盟は信長が亡くなるまでの20年も続きました。

これはかなりすごいことなんですが、家康が何度かつらい犠牲を払ったからこそかも・・・

清州同盟で織田信長と組んだことにより、様子を見ていた三河の国衆の中でも家康につくものが多く出てきました。

まとめ

甲相駿三国同盟や清州同盟と2つも同盟の話が出て来ましたが、戦国時代はどこと同盟を結ぶかがとても重要です。

織田信長と同盟を結び、強力な後ろ盾ができた徳川家康。

この後は反今川をかかげて東三河も攻めます。

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