この記事は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』を楽しむための予習記事です。
「大河ドラマは難しい」と思っている方にも、通説をもとに大まかになるべく分かりやすく背景を紹介しています。
予備知識があると、大河ドラマがグッと面白くなりますよ。
金ヶ崎の戦いから2か月後の1570年6月、怒り心頭の織田信長が今度は浅井討伐に向かいます。
有名な姉川の戦いです。
徳川家康も同盟者として参戦します。
金ヶ崎の戦いや姉川の戦いは、織田信長を苦しめる信長包囲網を形成していく要因となった一つであり、信長包囲網はのちに徳川家康にも影響を及ぼします。
また、浅井・朝倉軍で武勇を誇った猛将たちが、姉川の戦いで伝説を残して散ってしまいます。
姉川が血で染まったと言われる激戦です。
姉川の戦い
織田信長は浅井家を攻めるために、徳川家康へ援軍を要請します。
そして、浅井長政は朝倉義景へ援軍要請。
1570年6月、織田軍が浅井家の本拠地・小谷城を攻めます。
しかし、小谷城は山の中腹にある守りの堅い山城。
山城を攻めるのはものすごく大変で、攻める側が不利になります。
小谷城は日本五大山城の一つ。
小谷城には織田信長の妹・お市の方もいるので無理には攻められない。
お市の方にとっては、夫と兄が戦うことになり苦しい立場ですよね
平地での戦いに持ち込むため、織田軍は浅井軍をおびき出そうと城下町に火を放ちます。
しかし、浅井軍は出てこない。
浅井軍は、援軍の朝倉軍が到着するまでは籠城していたようです
織田軍はいったん諦め、姉川を挟んですぐ近くにある浅井の城・横山城を攻めて浅井軍をおびき出そうとします。
横山城は、浅井家にとっても重要な拠点なので、織田軍に落とされては困る城です。
家康は遅れて到着
織田軍が横山城を攻めている頃に、徳川軍も合流。
そして、朝倉軍も浅井軍に合流します。
援軍に来た朝倉軍ですが、朝倉家の当主・朝倉義景は来なかった。
代わりに、朝倉景健が総大将としてきました。
これには、浅井長政もショックを受けたとか。
姉川の戦いがスタート
6月28日、いよいよ姉川を挟んでの決戦が始まります。
姉川の戦いは不明点も多いようですが、徳川軍が活躍したという逸話もあるので大河ドラマ「どうする家康」でどう描かれるかはとても楽しみです。
織田信長にとって憎いのは浅井長政、因縁同士・援軍同士で対峙します。
織田軍の丹羽長秀や西美濃三人衆ら隊は、引き続き横山城を包囲しています。
横山城にいる浅井軍に挟み撃ちされるといけないですからね
織田軍 約20000 対 浅井軍 約8000・・・因縁同士の対決
徳川軍 約5000 対 朝倉軍 約15000・・・援軍同士の対決
※兵数は諸説あります
兵数の少ない徳川軍には、織田軍から稲葉一鉄の部隊が加勢します。
徳川軍の兵数は他に比べて少ないかもしれませんが、徳川軍はかなり本気のメンバーで参戦しています。
姉川の戦いについての話は、後世の創作と思われる部分も多かったり新設が出ていたりしますが、通説として有名なエピソードを含めて紹介します。
以下で登場する一連の逸話は後世の創作ではないかとも言われていますが、胸アツ展開なので「どうする家康」で登場したら嬉しいです
徳川軍 対 朝倉軍
援軍同士の対決となった徳川軍対朝倉軍。
数の多さから最初は朝倉軍に押されますが、途中から徳川軍が有利になります。
徳川軍で特に活躍したのが、旗本先手役の榊原康政と本多忠勝と言われます。
徳川軍・榊原康政の横槍
朝倉軍に押され気味だった徳川軍。
姉川を渡り勢いよく攻めてきた朝倉軍。
朝倉軍の陣形が伸びていたことに気づき、榊原康政隊は家康に命じられて朝倉軍の側面をつき、朝倉軍の陣形を崩します。
さらに、本多忠勝が単騎で朝倉軍に乗り込んだとも。
榊原康政や本多忠勝の勢いに感化された徳川軍の士気が上がり、徳川軍が優勢になります。
総崩れとなった朝倉軍は敗走してしまいます。
朝倉軍・真柄直隆の奮闘
朝倉軍には、大男で怪力、全長221cm・重さ4.5kgもある太郎太刀を振り回す真柄直隆がいます。
単騎で乗り込んできた本多忠勝と討ち合ったそう。
太郎太刀と蜻蛉切りの戦い!想像するだけで胸アツ!
榊原康政や本多忠勝の活躍に勢いづいた徳川軍に朝倉軍が押されてしまいます。
朝倉軍の敗北を悟った真柄直隆は、味方を逃がすために単騎で徳川軍に突っ込んでいったそう。
しかし、徳川軍の向坂三兄弟が三人がかりで斬りかかり、真柄直隆は討たれてしまいます。
こういう敗走時の奮闘(しんがりなど)は、泣けるエピソードが多いです
織田軍 対 浅井軍
最初は浅井軍が優勢で、織田信長が危険にさらされるほど追い詰められます。
しかし、途中から一気に逆転して織田軍が有利になります。
浅井軍には城づくりで有名な藤堂高虎もいますよ
浅井軍・磯野員昌の「姉川十一段崩し」
浅井軍の猛将・磯野員昌隊が織田軍の13段備のうち11段まで打ち破り、信長のいる本陣近くまで迫ったという話があります。
しかし、横山城を包囲していた丹羽長秀らの部隊が駆け付け、形勢が逆転します。
さらに徳川軍に加勢していた稲葉一鉄の部隊も加わります。
そして、徳川軍が浅井軍の背後を攻めようとします。
(※この一連の話は諸説あります)
追い詰められた浅井軍は敗走し、小谷城へ戻っていきます。
浅井軍・遠藤直経による決死の織田軍侵入
浅井軍に遠藤直経という重臣がいます。
浅井軍の敗北が目に見えた頃、遠藤直経は敗走する浅井軍から一人離れます。
そして、織田軍の兵になりすまして落ちていた浅井軍の首をひろい、「首実検を頼む」と言って織田信長がいる本陣に一人で近づこうとしました。
一か八かで信長を討ち取ろうと潜入したんですね
しかし、信長の馬廻り・竹中重矩(竹中半兵衛の弟)にバレて討ち取られてしまいます。
遠藤直経は浅井長政が幼い頃から支え続け、長政が絶大な信頼をよせていた重臣です。
遠藤直経の死は浅井家にとってかなりの痛手
織田・徳川連合軍の勝利
血で真っ赤に染まったという姉川の激戦が終わり、織田、徳川連合軍が勝利しました。
当主の朝倉義景がいない朝倉軍に対し、徳川軍は本気のメンバーで参加しています。
援軍の本気度で差がついた戦いと言えるかもしれません。
横山城を攻略
姉川の戦いで浅井・朝倉を壊滅まで追い込むことはできなかったものの、織田軍は横山城を落とし、横山城に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が入ります。
横山城を落としたことは、織田信長にとって大きなメリットがあります。
浅井の裏切りにより、織田信長は京と美濃を結ぶ街道である東山道(のちの中山道に相当)が敵の領地になってしまっていた。
横山城や周辺の城を落としたことで、美濃と京を結ぶ街道を確保できました。
大きな街道をおさえると有利。ちなみに中山道には関ケ原もあったりと、大きな街道沿い(さらに国境付近)は重要な拠点として敵とぶつかりやすい場所でもあります
また、佐和山城の磯野員昌を孤立させたことで、のちに磯野員昌を浅井家から寝返らせることにも成功します。
姉川の戦いでは、両軍とも甚大な被害が出たと言われます。
織田信長の討伐を諦めていない浅井・朝倉は、この後他の勢力を巻き込んで信長の敵対勢力を広げていきます。
いわゆる、信長包囲網です。
信長包囲網で敵だらけに
天下布武を掲げ、将軍の後見人として力を持った織田信長。
徳川家康との同盟関係も、対等なものから徐々に信長の方が有利な状態になっていきます。
そして、姉川の戦いあたりからいわゆる「信長包囲網」という織田信長に敵対する勢力が広がっていくことに。
姉川の戦いで対立した浅井家と朝倉家は第一次信長包囲網の一部となり、織田信長を苦しめていきます。
さらに、織田信長と将軍・足利義昭がそれぞれの目的の違いで関係が悪くなっていきます。
織田信長が、足利義昭の行動を制限するような内容の「殿中御掟」という書状を1569~1570年にかけて出しています。
姉川の戦いが起こった1570年にはにすでに関係が微妙になり始めているようです
この2人の関係性が、徳川家康にも大きく影響していきます。
足利義昭は味方になってくれそうな大名等に、信長に内緒で御内書を送ります。
足利義昭を中心に信長包囲網はどんどん広がっていきます。
ちなみに、信長包囲網は第三次まであります。信長包囲網に対抗する織田軍は戦い続きでかなりのブラック労働になります
信長包囲網は、同盟者である徳川家康をも苦しめることに。
このあたりからの徳川家康を知るには、同盟者である織田信長の状況も関わってくるのでセットで知ると面白いです。ただ、信長の状況は複雑なのでかなりややこしくなります。
『どうする家康』では、足利義昭を古田新太さんが演じます。
【第8弾 #追加キャスト】
— 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) January 6, 2023
のちに将軍となる家康が会った“最後の将軍”#足利義昭/#古田新太
室町幕府15代将軍。
三河の田舎大名・家康にとって遥か雲の上の人、異次元の人物。
明智光秀を介して織田信長と通ずるが、のちに2人は袂(たもと)を分かつ。#どうする家康 #乱世が生んだ怪物 pic.twitter.com/0xAZLxcl3i
クセが強そうな足利義昭になりそうですね。どんな風に織田信長を振り回すか楽しみです!
まとめ
1570年6月に起こった姉川の戦いは、徳川家康にとっては直接関係があるわけではなく、織田信長の援軍としての参戦でした。
姉川の戦いでの勝利は、徳川軍の活躍が欠かせなかったでしょう。
伝わる逸話も胸を熱くさせられる内容です。
この後、織田信長は敵対勢力との戦いに追われていきます。
一方、遠江を平定して浜松城に移った徳川家康は、迫りくる武田信玄との戦いに突入していきます。
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