【家康の三河平定④】三河統一!「松平」から「徳川」へ

どうする家康

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この記事は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』を楽しむための予習記事です。
「大河ドラマは難しい」と思っている方にも、通説をもとに大まかになるべく分かりやすく背景を紹介しています。
予備知識があると、大河ドラマがグッと面白くなりますよ。

家康、三河を統一!

西三河の三河一向一揆という大試練を乗り越え、東三河の今川勢力も排除した家康。

1566年、ようやく三河を統一することができました!

この時、家康は25歳です。

「松平」から「徳川」へ

三河を平定した家康は、朝廷から「従五位下じゅごいのげ三河守みかわのかみ」を叙任されます。

「じゅごいのげ」?

官位のことなんですが、朝廷から「三河を治めていいよ」とお墨付きをもらったということです。「じゅごいのげ」というフレーズ、大河ドラマ見てるとたまに出てきます。

三河の大名になることを朝廷に認めてもらったので、三河を統一したばかりの家康にとって権威付けとなり、三河の配下の統率がしやすくなります。

三河には、少し前まで家康に反発していた国衆がたくさんいたので、家康はどうしても朝廷に認めてもらいたかったのです。

ただ、官位をもらう際に「松平」姓のままだと条件に合わず、最初は認めてもらえなかった

先祖に源氏や藤原氏がどうのこうのっていうややこしい理由なんですが

先祖のルーツをたどり、色々考えて徳川姓に変えたようです。

「徳川」にした理由もあるのですが、話が複雑になるのでここでは省略します

25歳、三河の大名・徳川家康の誕生です。

やっと「徳川家康」になった!

三備の軍制を設置

家康は三河平定時に、家臣を西三河東三河旗本」の3つのグループに分け、戦での軍隊の編成にしています。

これが、三備みつぞなえとよばれる家臣団の編成。

そなえ・・・戦の時に編成する部隊のこと

西三河と東三河は、それぞれの旗頭はたがしらにまとめさせます。

【西三河グループ】

  • 旗頭:石川家成(数年後に甥の石川数正に交代)
  • 松平家一族や古くからの松平家臣が多い

【東三河グループ】

  • 旗頭:酒井忠次
  • 元今川家の勢力で新しく徳川家に仕える国衆も多い

旗頭はたがしら・・・リーダー軍事指揮官

三備の軍制で特徴的なのが旗本はたもと

徳川家康の直属に置かれた、武力の優れた選ばれし精鋭部隊です。

旗本は、旗本先手役馬廻の2つに分かれています。

旗本について

旗本先手役はたもとせんてやく・・・先陣で突撃して士気を高めたり、他の部隊のサポートに回ったりとフットワーク良く動く

本多忠勝や榊原康政など、特に強くてイケイケな家臣が所属し、大活躍していきます

馬廻うままわり・・・護衛として家康をガッチリ守る

いわゆるSP。蜂屋貞次や渡辺守綱など三河一向一揆で一度敵対した家臣や、服部半蔵もいます

このようにして、平定したばかりの三河の家臣たちを統率しました。

上記3部隊のほかに、民政を担当する三河三奉行も設置しています。

まとめ

三河の大名となり、家臣の体制も整えた徳川家康。

この後は、三河を出て今川家の領土である遠江へ勢力を伸ばしていきます。

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