この記事は、2023年の大河ドラマ『どうする家康』を楽しむための予習記事です。
「大河ドラマは難しい」と思っている方にも、通説をもとに大まかになるべく分かりやすく背景を紹介しています。
予備知識があると、大河ドラマがグッと面白くなりますよ。
1560年、歴史の教科書にも出てくる有名な桶狭間の戦いが起こります。
織田信長の飛躍の原点とも言える戦いであり、徳川家康にとって転機の一つと言える戦です。
大河ドラマ「どうする家康」でも描かれる予定ですが
- どういう戦なのか
- 家康はどういう活躍をしたのか
こんな視点で、知っているとドラマを楽しめるような情報をできるだけわかりやすく紹介します。
戦いが起きるまでの歴史背景の話が少し難しいかもしれませんが、お付き合いいただけると嬉しいです
※以下で表記している年齢は数え年です。実年齢は1~2歳若くなります。
桶狭間の戦いはどんな戦?
織田信長軍 対 今川義元軍
家紋や旗印は、戦でどちらの軍かという目印になるので、知っておくと大河ドラが楽しくなります。織田家は家紋が7つ、今川家は3つもありますが、大河ドラマでよく使われるのはこんな感じ。
1560年、織田家が治める尾張に今川軍が攻めてきたので、今川軍の侵攻を阻止するために桶狭間(現在の愛知県名古屋市緑区)周辺で起こった戦です。
- 織田軍:3千~4千人
- 今川軍:2万5千人
兵力は圧倒的に今川軍が有利でしたが、まさかの織田軍が大勝利。
織田軍の奇襲で今川義元の首を打ち取ったという、日本三大奇襲の1つと言われています。
桶狭間の戦いは、周辺地域の勢力を大きく変えるきっかけとなる重要な戦です。
NHK大河ドラマ「どうする家康」のキャストは、織田信長役を岡田准一さん、今川義元役は野村萬斎さんです。
【新たな出演者発表!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) November 29, 2021
家康がその背中を追い続けた男
⌌ ⌍
織田信長
⌎ ⌏#岡田准一
常人離れした思考回路をもち、革新的な戦術を生み出していく孤独なカリスマ。家康には、なぜか異様に目をかける。#どうする家康 pic.twitter.com/sa3kJ4BgmT
【新たな出演者発表!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) November 29, 2021
家康を乱世へと導いた男
⌌ ⌍
今川義元
⌎ ⌏#野村萬斎
高貴な名君。公家文化にも精通する。仁徳による民のための王道政治を掲げる理想主義者。家康が心から尊敬する人物。#どうする家康 pic.twitter.com/tCCjidUoPE
なぜ桶狭間の戦いが起こった?
織田家当主・織田信秀(信長の父)と今川家当主・今川義元は、桶狭間の戦い以前からずーっと領地争いをしてきました。
特に、間に挟まれている三河をめぐって長年争っていました。
三河出身の徳川家康の幼少期は、この三河をめぐる争いにガッツリ巻き込まれています。
桶狭間の戦いは今川義元の死によって、織田家と今川家の争いがいよいよ決着する戦とも言えます。
1551年 信長の父・織田信秀が亡くなります。
家督争いの末、「うつけ」と言われている織田信長が織田家の当主に。
一方、今川義元は、本拠地の駿河を盤石な状態にするため、駿河に接する甲斐の武田信玄や相模の北条氏康と同盟を結びます(甲相駿三国同盟)。
これで駿河は東から攻められる心配がなくなり、戦力を西(三河や尾張)に集中できる。
そして、家督を息子の今川氏真に譲り、駿河を任せます。
今川義元は、反乱を起こしていた三河の安定化と経営に集中したと言われています(三河忩劇)。
徳川家康の初陣・寺部城の戦いは、三河忩劇の中で今川義元からの命令で戦った戦の1つです。
そして、織田家の領土・尾張への進出も視野へ。
その先に、桶狭間の戦いが起こったことが想像できます。
桶狭間の戦いが起こった理由は、「今川義元の上洛のため」とする説がありますが、最近では「今川義元の尾張進出」が有力のようです。
この時点での織田信長、今川義元の立場は
織田信長(27歳)・・・尾張の戦国大名(現在の愛知県の尾張地方のトップ)
今川義元(42歳)・・・駿河・遠江・三河の守護大名(現在の静岡県西・中部と愛知県の三河地方のトップ)
今川家の方が領地はかなり大きい
実は、織田信長はこの時、まだ尾張を統一しきれていない。
一方、今川義元は朝廷から統治を任されて3国を治めており、立場的には圧倒的な差があります。
しかも、今川家は室町幕府を開いた足利将軍家の一族である超名門。
まさか織田家に負けるなんて思っていないだろうね
勢いのある今川義元が尾張を攻めるのも時間の問題でしょう。
戦いの最前線となる城が鍵
桶狭間の戦いの鍵となるのが大高城と鳴海城。
織田家と今川家で取り合ってきた城です。
織田領の尾張と、今川領の三河の国境にあるので、戦いの際は最前線の舞台になり得る重要な拠点です。
桶狭間の戦いの数年前、尾張と三河の国境にあった織田方の城は、今川軍が攻めてきたら勝てるはずがないと、鳴海城、大高城、沓掛城などを有する国衆がどんどん今川家へ寝返っていきました。
織田家当主になって間もない、うつけの信長じゃ無理だと見限ったのかも・・・
そして、今川家へ寝返った鳴海城、大高城に今川家の重臣・岡部元信と鵜殿長照が入りました。
- 鳴海城 城主・・・岡部元信
- 大高城 城代・・・鵜殿長照
国境の重要拠点を任されるということは、2人とも今川家にとって絶大な信頼のある家臣ということ。
この2人、その内また出てきます
織田信長もこの状況には黙っておらず、大高城と鳴海城の周りにいくつかの砦(付城)を築き、2つの城を包囲しました。
※付城:敵の城を攻めるために築く小さい城
鳴海城の周り・・・中島砦、善照寺砦、丹下砦
大高城の周り・・・丸根砦、鷲津砦
今川軍が大高城・鳴海城へ近づけないように、あわよくば取り返そうと織田軍が砦で見張っています。
桶狭間の戦いがスタート
今川軍の尾張侵攻における足掛かりとなるのが、大高城と鳴海城を織田軍の包囲から解くこと。
大高城は織田軍に包囲されて食糧不足になり、今川義元にヘルプを求めていたと言われます。
1560年5月12日、いよいよ今川軍が尾張に向けて、本拠地の駿府・今川館から大軍で出陣します。
尾張と三河の国境にある沓掛城に着くと、ここで軍議を行います。
家康は大高城へ兵糧の搬入
徳川家康は、今川軍として参戦します。
この時の徳川家康の名前は松平元康(19歳)、今川家の支配下で人質状態の三河の武将です。
※以下では便宜上「徳川家康」で統一します。
家康は、今川軍の先発隊として大高城に兵糧を運ぶという任務を受けます。
※兵糧:軍隊の食料
戦で兵糧は重要ですからね。腹が減っては戦ができぬ
ちなみに、桶狭間の戦いなど、若い頃の家康は今川義元にもらった金陀美具足という金の甲冑をつけていたと伝わります。
大河ドラマ「どうする家康」徳川家康役の松本潤さんも、クランクイン時に金色の甲冑をつけていました。
【 #どうする家康 クランクイン!】
— 2023年 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) June 6, 2022
我らが殿・徳川家康役 #松本潤 さん がクランクインしました!
松本さん
「丁寧に作品をつくっていきたい」
磯P
「どうする家康の世界へようこそ!」
▼クランクインメッセージはこちらhttps://t.co/LakPSSSGP6
松本潤さん演じる家康が険しい顔つきをしているように見えます
砦にいる織田軍の見張りに気づかれないように兵糧を運び込む危険なミッションですが、5月18日の夜、家康は搬入に成功。
さらに、大高城を包囲していた丸根砦、鷲津砦を攻め落とすという手柄もあげます。
家康、ミッション成功です。
信長の出陣・勝運をもたらした雨
織田信長も動き出します。
桶狭間の戦い当日5月19日、信長のざっくりとした動きです。
- 4時頃清州城で敦盛を舞い、出陣
- 8時頃熱田神宮で戦勝祈願
- 10時頃善照寺砦で情報収集
- 13時頃豪雨にみまわれる
- 14時頃桶狭間で休憩する今川義元を討つ
信長はわずかな家臣にしか行先を知らせず、早朝に清州城から少人数で出陣します。
敵をあざむくには味方からということでしょうか
今川方に動きを悟られないよう、集団を分けて出発し、熱田神宮で集合したとも言われています。
熱田神宮では戦勝祈願をします。
織田家にとっては領地をとられるかどうかの死活問題。
この頃の信長は、自ら兵を率いて先陣切って戦いに行くことがよくあったようです。
信長のリーダーシップの高さも人気な理由の一つですね
今川義元の軍も沓掛城から進軍しており、見晴らしの良い桶狭間山で休むことにします。
この時、今川軍は宴もしていたとか。
大高城での活躍を耳にし、油断もあったかもしれないですね。
鳴海城付近の善照寺砦にいた織田信長にも、今川軍へ偵察に出していた隠密により、今川軍が桶狭間で休憩をしている情報が入ります。
※隠密・・・情報収集などスパイ活動をする者
今川義元は豪華な輿に乗って参戦していたと言われるので、そもそも今川本陣は目立っていたみたい
信長は攻めるチャンスと見て、善照寺砦にいくつか旗を立て、あたかも信長がいるように見せかけた状態にし、今川本陣へ近づきます。
すると突然の豪雨が。
この豪雨が信長に勝運をもたらしたと言われています。
桶狭間山のせっかくの見晴らしを遮る程の豪雨、このせいで織田軍が近づいてることに気づかない程だったよう。
雨が上がる頃、織田信長の部隊が突然今川本陣に突撃してきます!
狙うは総大将・今川義元の首のみ!
不意をつかれた今川軍は大混乱に陥り、激しい戦に。
最も早く今川義元までたどり着いたと言われる服部小平太が、今川義元に一番槍をつきます。
しかし、今川義元も名武将。
義元の反撃に合い、服部小平太は膝を切られてしまう。
すぐに毛利新介が追いつき、義元に切りかかります。
「今川義元、討ち取ったり!」
圧倒的な兵力差があったにも関わらず、今川軍は敗北してしまいます。
総大将を失った今川軍は総崩れとなり、今川領へ逃げ帰っていきました。
徳川四天王はどうしていた?
「どうする家康」の予習記事なので、徳川家康といえば有名な徳川四天王についても。
桶狭間の戦いでは、どういう存在だったのでしょうか。
- 酒井忠次・・・34歳。家康率いる先発隊の一員で、大高城へ兵糧を搬入し、鷲津砦を落とす
- 本多忠勝・・・13歳、初陣。酒井忠次と同じ動き。おじの本多忠真にピンチを助けられる
- 榊原康政・・・13歳、家康と出会っていない(この後すぐ、大樹寺で出会う)
- 井伊直政・・・生まれていない
すでに家康の家臣である酒井忠次と本多忠勝は、やはり家康と一緒ですね。
他にも、松平家譜代の三河武士が家康と一緒に行動しています。
※譜代・・・代々同じ主家に仕えること
まとめ
1560年の桶狭間の戦いについて、起こった経緯と徳川家康の視点を含め紹介しました。
- 織田信長 対 今川義元、兵力は今川軍が圧倒的に有利
- 徳川家康は先発隊として大高城へ兵糧を運んだ
- まさかの織田軍が勝利
桶狭間の戦いといえば、以前は「織田軍の少ない人数で今川義元がいる本陣を一か八かで奇襲し勝利した」という内容でした。
最近では、「織田信長の緻密な戦略と隠密で、今川軍の情報を逐一把握して勝利した情報戦だった」という説が有力なようで、最近の大河ドラマでもこの様子が描かれています。
決戦の地となった桶狭間には、現在古戦場跡地となっています。
月1で無料のガイドツアーもあるみたいですよ。歴史好きとしては気になる!
今川軍として負けてしまった家康。
この後、大高城から脱出して岡崎城へ逃げ延び、転機を迎えます。
その途中、逃げ込んだ寺で家康の人生に影響を与える出会いが。
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